昭和40年08月23日 朝の御理解



 これは、まだ信心が足らんからだと。一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられると。これはまだ、信心がたりんからだと、一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられる。これほど信心するのにと、これほど信心するのにと、言う所にはもう信心は留まっておると、おっしゃる。これほど信心するのにという時には、もう信心は留まっておる。
 これはまだ、自分の信心が足りんからだと、神様に打ち向こうて行く、そこから、そこから、おかげが受けられると。そこからおかげが受けられるという、そのおかげを、私は、今日は、本当のおかげを受けられない事に、その持っていかねばいけんと。ね。皆さん、どういう風にそこんところをお考えでしょうか。「真に有難しと思う心、直ぐにみがげの始め」とこう。
 これだけ信心するのに、有難くなれないと、ここんとこだと思うね。これだけ信心するのに、この事が成就しない、するではなくてです。これだけ信心するのに有難くなれない、どういう事であろうかと。これは、まあだ、信心が足りんからたと、ね。一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられる、そこから有難くなれれる。だから、ただ、普通一辺のところではおかげにならん。
 そこからもう一段、もう一段進めて行こうとこうと、ね。忙しい、いろんな都合があると、誰が見てもお参りが出来ず、出来ないと、言わば言い訳は十分に出来、立つのだと。なら、そこまでの信心は出来ておる訳なんです。いろんな事情ち、色んな都合。それは言い訳をすれば、誰でも、そりゃぁ、お参りは出来まいとこう、例えば思う。けども、そこをです、そこん所をもう一つ押して行くと。ね、
 夕べは、もう遅かったからと、今日は、朝の御祈念にお参り出来んのが、例えば遅刻をするのが、もう神様も眠い事は、ご承知だから、先生も夕べ遅かった事は知っちゃるから、ね。そこまでが、あ、これほど信心するのにと言うところでしょうね。けども、それではやはり、ならそれでも有難くなれれば良いけれど、有難くなれないなら、いわいるおかげを受けられないならばです。
 もう一段、そこん所を、工夫しなければいけないのじゃないだろうかと。ね、信心は私、何を目指し、何を目当てに信心するかと言うと、もう有難く成らせて頂く稽古以外にはないと思うのです。だから結局、その有難く成らせて頂くために信心の稽古をする。どうして有難くなれんのだろう。どうして有難くなれんのだろうと。そこん所に、何時も自分の心を置いていかなければならない。
 もちろんそこまでには、信心の一つの、基礎と言ったようなものがいるでしょうね。一つ、がむしゃらに、例えば私、今、若先生が帰って来ておりますから、今、中野さんとか、秋永さんとか、ね、まぁ、一生懸命思いたっておる人達が、信心の稽古をしておるから、今日からは、その汗を流させてもらう、御祈念の稽古を、昼、時間を決めてやれと私が言うておるんです。
 それは有難くなれる、それはもう条件が条件なしに、兎に角一生懸命に御祈念をするという、その御祈念いわいるあれを願う、これを祈るといったようなものではなくて、ただ、一生懸命に御祈念をすると言う。もう腹のそこから、例えば大祓いなら大祓い、奏上させて頂いて、一生懸命の信心の稽古をさせて頂くと、そういう例えば基礎をしっかり、言うならば作らせて頂いてから、またそこから初めから有難たくなろうと思うても、なかなか出来ません。
 初めの間は、分かりません方がお参りをする、お取次ぎを頂いてお願いをする。お願いをしたら、こういうおかげを頂いた、そのおかげが有難かった。ただ、おかげが有難かったと自分が願うた事だけが成就した事が有難かったというのは、これは真に有難いには、通じない。ね、お願いした事が成就した、と言ったような事だったら、丁度子供がおやつを貰うて喜んでおるようなもので、そりゃつかの間の喜びなのだと。ね、うたかたのような喜びなんだ。それではいけん。
 いつでも、どこでも、っとこう、目を瞑って、金光様を念じさせて頂いたら、何とはなしに、じっと、くるようなもの。心の底から、有難たいなぁと感ずるもの。そういうようなおかげが頂きたいのだけれど、おかげが受けられん。もう何年信心の稽古させて頂いておるのに、有難くなれないとするならです。ね、やはり、どうして、おかげ、有難くなれんのだろうか、と言う所にです。
 だから、これほど信心するのにと言うのじゃなくてです。これはまぁだ自分の信心修行が足りんのだ、自分の信心が足りんからだと、そこからです。もう一段、もう一段、今までので精一杯なのだけれども、もう一段、進めていく、それは、形だけの事ではありますまい。ね、心の上にも同じ事。形の上に置いては精一杯の事が出来ているんだけれども、心の上に置いては、まだ精一杯も出来ていないとするならば。
 またはある場合は形の上じゃ、まだまだ、余裕がある、ゆとりがある。まだ一生懸命になろうと思えば、一生懸命なれるゆとりがある。ね、そういうように私は神様に打ち向こうて行くと。そこからおかげが受けられるのです。そこから有難しが受けられると。今日私は本当に、有難く成らせて頂くために、一つ一生懸命に一切をです。信心で思い信心で行い、しかもそれに一生懸命が伴のうたおかげを頂きたいと。
 どこの端からでも有難いを頂きたい。こういうおかげを頂きたい、ああいうおかげを頂きたい。それもそうでしょうけれども、それが条件のない、そういうような意味合いにおいての条件は、もう抜きにして、ただ、有難く成らせて頂きたいと。という、私は信心を続けて行きたいと。昨夜、あのう、御祈念に、総代さんの久富さん、朝晩御祈念にお参りになる。昨日も朝の御祈念に御心眼頂かれたのがです。
 昔あの酒屋一斗樽というのがございましたですね。一斗樽に永瀬さんと二人で一生懸命お、そのお酒を量りこう量りこんでいられる、おるところを頂かれた。はさもあろうかと私は思うた。まぁその目でそういう意味合いにおいてから、確かに有難しも感じておられるであろう。また一生懸命に信心も出来になっておられるで有ろうと。まぁそういう意味合いでの朝参り第一人者、の方達ばかりであろうと、こう思うんです。
 どういう事だ、どういうようなご神意がございましょうかと言うてから、お伺いが夕べあったんです。ご神意をお伺いさせて頂いたら、四分の一と頂きました。四分の一とははぁ成る程いっなら一斗樽の四倍と言う事になると、四斗樽昔は四斗樽、四斗樽ち言よった。これは四斗樽に入れなきゃ、一斗樽じゃ詰まらんと言う事です、この一斗樽に大変深い意味があるようでございます。
 けれどもです、例えばなら誰が見ても、ならなら繁雄さんなら繁雄さんに、永瀬さんなら永瀬さんにです、今のような信心でどうするの?と。まいっちょ頑張らんのと。例えばこれは私でも言えんです。何故っ、精一杯の信心しよんなさるという事は、私が見て感じるです。けど神様の目からご覧になりゃ、まぁだ四分の一だと言う訳なんです。まだ四分の三だけは、信心をはずまないかんち言う事になる。
 そのだから四斗樽という事は、一生懸命という事に通じると思うんですね。死闘すると言うでしょう死闘。一生懸命戦うと言った意味で。これはもう四斗樽でなきゃいけんなと。四斗樽でなからにゃいけん。そんなら繁雄さんどげな風な、いっちょ信心しなさるですか?って、こっちが言いたいくらいにあるです。これから上どげな信心しなさるですかと。ね。けども形の上にはそれなんだけれどもです。
 なら心の上に置いてはまだまだ私は、または過程においてはです、まだまだ目の荒い四分の一くらいの信心でしかなかじゃなかろうか、と私は思う訳です。ね。後の四分の三をです。いよいよ精進させてもらい、これはですね。もう条件無条件です。無条件に一生懸命に例えば、御用に打ち込むということですね。あれは不思議な事ですね。条件があってはいけないようですね。有難く成ると言う事は。ね。
 あそこまで行きゃ幾ら方なるけんでと、言ったような条件じゃないの、あっちゃならんのです。いわゆる、無条件いわゆる真心とはその体惜しみしない事ですと。ね。真心とは、無条件ですと何時か私は、そういうおみ教えを頂いた事があります。真心とはどういうような事だろう?真心とは条件のない事である。同時に体惜しみしない事だとこう。ね。その体がおしむという事に。一つ私は考えていかなきゃいけない。条件がないかと無条件でいわば神様へのお礼の印にと。
昨日建築員の方達が。久富勇さんと、それから森光さんと、れからあの「佐田恭造さん?」と三人だった。毎日三名、四名の方達が、本当にもう本当に関心するくらいにもうその行のように毎日それが出て見えるんですね。あの、受けもっとる方たちが、私本当言うとその椛目の底力といったようなのを感ずるですね。大体、建築員の方達の場合なんかは、あの壮年部の年輩ではあるけれども。
 壮年部に出て見えられないし、ならお日参り的な信心が出来るという訳でもないと、いったような感じの方達が多いんですよ。言うならば、まぁ、総代幹部、まぁ、以下の方達の、まぁ幹部以下の方達の、まぁ、でまぁ出来ているって感じなんです、そういう大体がですね。言うなら、かば、椛目の端々のご信者さんと言っても良いような感じなんです。けども、なかなか、どうして、もう私はもう驚きます。
 これはもう、福岡の方達も二回ずつ位、皆回られますでしょうけれど、これはまぁだこれから長い事でございますけれどもです。なるほど、あの勢いでご奉仕をされるなら出来るだろう、そしてそこから何かその奉仕の中から。何かを頂かれるだろうというような感じが致します。朝の9時から、5時、6時頃までですけんね。帰って日誌を書かれ終わられると、もう6時になりますですもん。毎日の事ですから。
 まぁそういうような事でござい。昨日はもう森光さんも2度目のでした。2度目の奉仕でした。でここへちょうど時間に出て見えましたから、森光さんこの暑いのにご苦労さんです。と私が申しましたら、森光さんが言われるんですよ。もうそげなこっちゃございませんっちもう。その、いいえの素晴らしい事。とてもんとても、先生この位の事は、もう、させてもらわにゃと言うのですよ。途端にですね。
 もうあのお社にカチッという御勇みが付きましたよ。これなんですよ。「この位な事させて頂かにゃ」と日頃お世話になっとるけんと、言ったようなもんでも、なかなければです。ね。御用させて貰や、おかげ頂くけんと言うようなものでもなからなければです。このくらいの事。それがです私は一切の御用の中に、なからなければいけんじゃないかと、こう思うのです。
 もう一つ今日は私共の、例えばなら繁雄さんやら、永瀬さんあたりの信心ですら神様は四分の一と仰るくらいですから。お互いの信心な、まぁおして知るべしだと。折角なら、日々、何を暮らしておるのですから。ね。体をしみしながらその事をしたり、ただ条件付でその事をしたりと言った様なものではなくてです。どこからここまで行っても、そりゃ無駄足になっても良いじゃないですか。
 折角させて頂くなら、体を惜しむのではない、いわばというようなその気持ちでです。御用に当たらせて頂く時。ね。神様は必ず何かを与えて下さるんじゃないかと思うんですね。これは私が何時も例に、申しますけれども、長男がまだ学院に入る前、善導寺に修行に行く前にしばらく朝参りをした事がございます。朝の御祈念に遅くなったら、その朝は断食しますと。と言ったようなその気持ちで。
 そのその事をまぁ行じ抜かして頂くために、そんな修行まで自分で思い付いてさせて頂いておったわけなんですが、ある冬の朝だった。お参りをさせて頂いてから、御祈念前に一生懸命にその、お広前のお掃除をさせて頂いておる。一生懸命に、そのお雑巾掛けをさせてもらいよる。そしたらね、まぁだ、例えば、なら、その時は十、高校出たばかりですから、まぁ18です、位でしょうかね。
 位のんならいわいる、その少年時代に、少年ですたいね。なら心の中にですね、もうなん、何か分らんけれども、涙が流れて涙が流れて仕方がなかったち。それははぁ冷たいとか、苦しいといったようなもんではないという事。はぁこれがこれが有り難いというもんだなっという、その体験をしたと言う事を、何時か話しておりますもん。向かうのも一生懸命御用頂くのも勿論、無条件で一生懸命。
 そこにはです神様がお喜び下さるんですね。きっと。例えばあの氏子が、なら百姓なら百姓、を御用を一生懸命させて頂いておる。しかもそれは無条件、しかも体惜しみをするのではなくてからです。一生懸命の例えば御用が出来ておる時です。いわばそれはあなたの御用として、一生懸命打ち込んでいる時にです。そういう姿またはそういう心の状態に神様がです、私は感激を送って下さるんじゃないかと思うですね。
 不思議なんですもう今日一日もうへとへとにならせて頂いた。ね。へとへとに成っておるんだけれどもです。ね。その後にはもう有り難うして有り難うしてというような、ものが生まれてくるんです。ね。その有り難いというのが、その一日、へとへとになっておるが、疲れをいやすのです。その証拠には、明くる朝ピシャッとした言わばおかげを頂けておると言う事なんです。
 真に有り難いというのはそういう意味合において、そのエネルギーになるんです。私が修行中の時代にですね。とにかくそのこの体を、まぁ持て余すては勿体ない。丁度取り組みの真っ最中でした。農家の方達は。だから、もうその何かもう何か御用をしとかな、御用はございませんか、御用はございませんかて言うてその、御用探して歩くような気持ちの状態の時です。ですから、もう何処んでも良いから。
 そのう勿論、無条件ですね。ですからお礼なんか問題じゃないです。使うて下さってその、御用させて頂きたいといったような時代。一生懸命ですからそのどこやらここやらに行く訳にはいけませんから、最後の塩田さんっち言うてから、元、私の、父ではのうして、だから、その知り合いの家に、泊まりがけであの、御用に参りました。あ、慣れない仕事ですからも、へとへとでございます。もう一日の取り入れを終わってしもうてから、もう日が暮れかかってから、ワラこ積みをされるわけですね。
 ですからなかなかその慣れないもんですから。もうあのあのわらこ積みじゃない、そのワラを一把一把作るんですね。そしたらあのむすてでそのわらを一把一把こう結ぶ。だから「中田先生?」は、も簡単にさっさ、さっさと出来て行くんですけれどもなかなか、どいぞほんねは、そんなわけには行かん。はあ一生懸命力を入れてからこうこん左でこう丸めといて、してから力をこう入れて入れるです。ところがもうへとへとになっとるもんですから、その力入れた途端に結びが切れたです。
 切れたらです、どげな調子か、体がもうその向こうにころっと落ちた。こう反動ですね。こんな具合でしよったんです。向こうへ転んだです。もう起き上がる力もないごとあった。もうへとへとですからね、慣れない仕事をしてから。けどもそういう中にですね、もう有り難うして有り難うして、もうそのまま起き上がらんのにね、もう兎に角その有り難涙がこぼれるです。一生懸命でしかも無条件で、慣れない仕事を一生懸命やらして頂いておるという事がです、ね。明くる朝はそこの農家の方達よりも早く起きってから最後から(途中切れ)